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2018.12.16

2018年12月16日 (日) 00:08
2018.12.16

◎宇宙旅行は2800万円?
まだちょっと手が届きませんが………
「2800万円くらい借金はできるけどね」
妻「す〜ぐ見栄張ってからぁ?」
娘「上海の次は宇宙?!」
「………宇宙即我」
妻「宇宙より病院にまた連れて行かんなんごつなる」?

◎相続税の申告で今日も大川市へ
来週申告書完成。税額は0。
未成年者が二人以上いる場合、原則は親権者をもう一人、家庭裁判所に選任して貰う必要あり。司法書士に確認して貰う。
私はその前に『無道路地』の評価が下がり過ぎていないか、税理士会相談室に来週月曜日再度確認に。
「これは無道路地とは言えませんね」?
「見解の相違」で数千万円はすぐに羽根上がると0が納税に。この前「土地評価」の研修会に参加したら不安になってきた。念のため。?
     
◎厚生年金の支給開始年齢
平成30年度から全て65歳。特別支給は終了。
さらに70歳超からの選択繰り下げ支給を広げる方向。遅らせるとさらに年金を多く貰える仕組み。私は75歳支給開始を希望。
夫婦で150,000×184%=276,000円
これくらいあったら何とか老後生活できます。決まるのを待っています??
これも今のところ100人に1人か。?
     
◎ミスタードーナツで
近所のご婦人にバッタリ?
「あらぁ」
「思わず松坂慶子と思った」
「潔くん上手ねぇ」?


【一年前】
●ツルッツル、ほんにいい、包まれる?
昨夜から今朝にかけて、温泉に3回も入り、お肌はツルッツル?
筑後川温泉に初めて浸かりましたが、お湯が『ほんにいい!!』です。
今までの温泉と比べても“包まれる”感じ。
??

●九州北部豪雨被災者事前相談会
「家も家財も車も全部流されました」
「命があっただけでもよかったです」
「つい最近までこの会場に避難していました」



◎公明党 行田 朝仁 議員 FBより
<消費者「AI使いたい」 中国55%、日本15%について>
ひとつの見方ですが、過去の経緯が影響しているのかなと思います。例えば、固定電話の技術が成熟した後に、携帯電話が主流となった日本。一方、通信インフラがない場所では、固定電話の時期を飛ばして携帯電話から始まる。過去がないと、過去を引きずらない。最新技術を積極的に利用しようとする意志につながっているのかも知れません。

「過去がないと過去を引きずらない」
――素晴らしい言葉????


◎歴史も人間も決して一面では語れない
(産経抄)

飯沼 貞吉
(いいぬま さだきち、嘉永7年3月25日(1854年4月22日) - 昭和6年(1931年)2月12日)
白虎隊士(士中二番隊所属)、通信技師、軍人。維新後は名を貞雄と改め、逓信省通信技師となる。後に孤舟、孤虎と号した。軍人としての最終階級は陸軍大尉。栄典は正五位勲四等。
年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍した。1931年(昭和6年)2月12日、77歳で生涯を終えた。

楢崎頼三(ならざきらいぞう)
兵学修業で留学した陸軍草創期軍人
【生没年】
弘化2(1845年)− 明治8(1875年)
【享年】 31 歳
【誕生地】長門国萩土原村梨木町(萩市)
【墓】萩市北古萩町(亨徳寺) フランス国パリ(モンパルナス墓地)
藩士林家に生まれ、のちに楢崎家の養子となる。藩校明倫館に学び、文久元年(1861)藩世子毛利元徳に近侍する。文久3年、下関に出張して攘夷戦に参加。元治元年(1864)世子の上京に従うも、禁門の変により引き返した。
会津戦争後、会津の少年を長州に連れ帰って面倒を見たという逸話も残る。  明治3年(1870)兵部省から兵学修業のためフランスへ派遣される。明治6年、留学生取締に任じられたが、明治8年、肺病を悪化させてパリにて客死した。


◎月形 潔(つきがた きよし)
弘化4年6月27日(1847年8月7日)
- 明治27年(1894年)1月8日)
江戸時代末期の福岡藩士、明治時代の官僚。北海道樺戸集治監典獄、樺戸・雨竜・上川三郡郡長として北海道開拓に携わる。樺戸郡月形町の町名は彼の姓に由来している。

乙丑の獄(いっちゅうのごく)
1865年(乙丑年)に、福岡藩で起こった佐幕派による勤皇派弾圧事件。乙丑の変、または乙丑の政変と呼ぶ場合もある。



◎力道山も
出自や民族問題に翻弄されていたんですね。


◎織田信長に娘がいたなんて!!
ーーあ〜徳姫はいた!!
加賀藩初代藩主・前田利長(まえだ としなが)の正室だなんて??
徳川家康の長男・信康の正室となった、織田信長の長女・徳姫は知っていたが、他にもいたなんて、初めて知った。

永姫(えいひめ、天正2年(1574年) - 元和9年2月24日(1623年3月24日))
織田信長の四女。前田利長の正室。院号は玉泉院、法名は玉泉院殿松厳永寿大姉。

前田利常は父・前田利家の側室・寿福院の子ではあるが、派手な母親には苦手意識があったようだ。

☆「玉泉院」がいい!!
昔の職場の葬儀部門。
関係があるのかどうか??

玉泉院(ぎょくせんいん)

大名の娘・正室の院号。以下の人物などが用いた。
永姫 - 初代加賀藩主・前田利長の正室で、織田信長の娘。
最後の西尾藩主・松平乗秩の正室キン(大垣藩主・戸田氏正の娘)。
三池藩主・立花種長の娘。
日本の寺院、葬祭施設。
全日本冠婚葬祭互助協同組合(株式会社セルモなど)が運営する葬儀・法要会館。
京都市上京区にある妙覚寺の塔頭の一つ。
京都市伏見区にある宝塔寺にあった塔頭の一つ。

………関係はないようだ。
??


◎心の友
猿渡先生が代表して正義を貫かれたことは素晴らしい事と思います…先生の注意に腹を立て本性を現した講師は、反省しない限りきっと猿渡先生が言われる通りの結果になることでしょう!

「其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう」

「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

十一通御書 宿屋入道への御状
文永五年八月 四十七歳御作  於鎌倉

その後九年を経た今年、大蒙古国から牒状が来たといううわさを聞いた。経文の示すところに依れば、彼の国からこの国に攻め寄せてくることは必定である。


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