◎矢島周平という男
信州生まれ。本籍地は長野県小県郡禰津村。
共産主義にかぶれ、ずっと貧乏ぐらしの男だった。
その矢島は、昭和10年の正月、親友に連れられ、牧口常三郎と会った。
牧口先生
「私は法華経の修行者で。もしマルクス主義が勝ったら、私は君の弟子となろう。もし法華経が勝ったら、君は私の弟子となって、世のために尽くすのだ」
矢島は学会員となった。
それから間もない日、牧口は警視庁の労働課長と内務省の警備局長のもとへ彼を連れて行った。
共産思想から転向したことを伝えてから念を押した。
「ご安心ください。今後、矢島君は、法華経の信仰に励み、国家有為の青年となります」
矢島は教員をしていた。
教育県の長野では共産思想にかたよった教員らが数百人も検挙され、多くが教職を追放された。この「教員赤化事件」と呼ばれる騒動に連座していた。
わざわざ警視庁と内務省にあいさつしたのは、そうした背景のためと思われる。
思想犯のレッテルを貼られ、闇から闇へ逃げるしかなかった矢島。それを、ここまで牧口が治安当局のトップと話をつけ、日の当たる場所に戻してもらったのだから、ありがたい話である。
しかし、これほど世話になったというのに、矢島は軍部政府の弾圧に屈した。共産主義を捨て、さらに恩師の牧口をも捨て去ったのである。
そのまま学会と縁を切るかと思いきや、戦後は、戸田に拾われ、日本正学館で働き始めた。女性雑誌「ルビー」の編集長などをしている。
戸田城聖から矢島周平に理事長職が正式にバトンタッチされたのは、昭和25年(1950年)11月12日、創価学会の第5回総会である。
そのころを知る人物。
「人に取り入るのが、うまかった。青年部は、よく相談していた。戸田先生は、おっかないから、矢島のほうが話しやすかったのだろう」
現実は暗転しつづける。矢島に追われるように、戸田城聖は西神田を去る。12月、大蔵商事の事務所が新宿の百人町に移った。
現在の地図を見ると、新宿駅から山手線・西武新宿線が並んで北に延びていくが、やや北西にかたむく中央本線との間でVの字が措かれている。V字形の根もとあたりに事務所はあった。
今、その界隈にはカフェやファストフード店が並ぶ。煮干し風味で知られる人気ラーメン店に行列ができ、往時をしのぶものはない。
しかし、かつてガード下にはベッドハウスがぎっしりと並び、その日暮らしの労働者が身を寄せていた。たえまない震動と走行音がする。
その一角のレンズ工場跡地に事務所を置いた。工場の主は戦後、戸田城聖から法華経の講義を受けながら後に離れていった男である。
地肌がむき出しの土間。机と、それを囲むようにして長椅子が置かれているだけだった。梁に裸電球が、ぶらさがっている。
出版界のメッカ神田にくらべれば、都落ちの感は否めない。社員も池田大作青年のほかに戸田の親戚が2〜3人しかいない。
池田青年の日記も、こんな言葉で埋められている。
「昨日まで、水魚の仲の親友も、今日は、腕を振るう敵となる。今朝まで、心から愛していた人が、夕べには、水の如く、心移り変わる。先日まで、親しく会話していた客人も、一瞬の心の動掘にて、血相を変えて怒る」(12月12日)
本来なら戸田が厳しく戒めるところだが、それどころではない。「おれの方には大作しかいなくなっちゃったな」とつぶやいている。
「誰も『戸田先生』と言わなかった時、私がひとり『戸田先生、戸田先生』と叫んだ。叫び続けたんだ。師匠の名前を呼ぶ。叫ぶ。それが大事なんだ。『戸田先生』と叫ぶことで、私は学会を守ったんだ」(池田SGI会長)
どこまでも師弟の道をゆくことを訴えた。
「矢島? すごい理屈っぽい人。横柄で攻撃的だった。もちろん人気なんかなかった。とうてい信頼できる人じゃない。みな、これから、どうなっていくんだろうと心配だった」
「私は創価学会を幾度も救った。まず戸田先生の事業の苦境。矢島の謀略」
「この本を君にあげよう」。昭和28年の新春、恩師は1冊の本を愛弟子に手渡した。ローマを舞台にした大河小説『永遠の都』(ホール・ケイン著)。十数人を選び、回し読みした。
裏切るな! 青年ならば! 四面楚歌の情勢下、革命児ロッシイ、ブルーノの同志愛を心に刻む。「嵐のような弾圧も、覚悟のうえで進む以外にない」(池田大作著『若き日の読書』)
【「池田大作──その行動と軌跡 若き指導者は勝った」(第5回)
2009年1月10日付 聖教新聞】
◎虚栄の人間がなんだ
2013年11月11日 (月)読了
創始者は常に殉教者だ
世界の良書…心に残る一句
『永遠の都』上中下全3巻
/ホール・ケイン
上:人間共和の旗を掲げて
中:壮大な革命劇とロマンス
下:鋼鉄よりも固き同志愛
序曲
「ああ、子供たちの泣き叫ぶ声、子供たちの泣き叫ぶ声が聞こえる!…悲しいかな、国家や政府、王家の人たちは気にもとめない。いや、耳さえ傾けようとしないのだ!」
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早勝問答 文永八年 五十歳御作 p.161
第一章浄土宗の邪義を破す
念仏無間地獄について
次に、念仏が無間地獄の業というのなら法華もまた無間地獄の業である、という浄土宗側の反論に対する破折のしかたが示されている。この言い分は法華もまた、他の教を排斥しているのではないかというところから出たものと思われる。
一義には、法華無間とは自分勝手に立てた義なのか、経文に文証があってのことかと反論せよ、と仰せである。
念仏無間という大聖人の破折は、浄土宗の開祖・法然がその著・選択集で、法華経等の諸大乗教を、「捨てよ・閉じよ・閣け・抛て」と誹謗しており、これは法華経譬喩品第3の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば…其の人命終して、阿鼻獄に入らん」の文に当たることによっている。
それに対して法華無間という反論は経文等になんの根拠もない感情的な反論にすぎないのである。