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2018.5.7

2018年05月07日 (月) 00:01
2018.5.7

【一年前の今日】(5月5日)
◎うなされておりました
昨夜は、早い時間から睡魔に襲われ、深夜夢の中で、実際に行った荒川区の、新築中で不在だったお宅で、ピンポーンを鳴らそうとしている時に、周りから何か圧迫され、金縛りにあって、全く身動き取れなくなって、うなされておりました。
低音で「う〜ん……う〜ん……う〜ん」
妻は横からビックリして
「どげんした…大丈夫?…病院に行こうか?」

プルーンの原液を2本飲んでやっと落ち着きました。


◎いいことメモ習慣(名字の言5/6)
私もこのFBで毎日「いいことメモ習慣 」。
有り難いです?

◎朝食時、大渕税理士とFB会話
息子を大事にされますね??
見習わなくちゃ?

こちらが付き合ってもらってる感じです(笑)

いいですね?私もその気持ちでいこう?


◎緒方先生よりLINE
おはようございます、昨夜は久しぶりに猿渡先生と一緒に飲めて嬉しかったです、ありがとうございました。…今日は雨が降っています、どうかお気をつけてお帰りください?

私の方こそありがとうございました???

今から佐賀県立博物館に行きます?


◎佐賀県立博物館
二行書(先憂後楽)
にぎょうしょ(せんゆうごうらく)
『先天下之憂而憂、後天下之樂而樂』
国を思う者は、人に先立って天下のことを憂いて安楽を後に得る
中国・北宋の政治家、
范仲淹(はんちゅうえん)(989−1052年)の
『岳陽楼記(がくようろうき)』の一節で、
「鍋島直正」が座右の銘とした詩句。
鍋島直正
文化11年12月7日(1815年1月16日)〜
明治4年1月18日(1871年3月8日)

◎佐賀県立美術館
岡田三郎助
1869(明治2)身体は1939(唱和14)
『日本には、好(よ)き画(え)かく夫人に欠けてあるには候はずや』


◎佐野 常民(さの つねたみ)
1823年2月8日(文政5年12月28日)
- 1902年(明治35年)12月7日)
佐賀藩士、政治家。日本赤十字社の創始者。
官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿、元老院議長。勲等は勲一等。爵位は伯爵。
「佐賀の七賢人」の1人。

?どうして大河ドラマにならないのか、と思うくらい、こんな方がいたなんて、初めて知りました。

◎三重津海軍所(みえつかいぐんしょ)
佐賀藩が1858年(安政5年)に設立した蒸気船等の船の修理・造船施設。西洋船運用のための教育・訓練機関も兼ね備えていた。実用的な国産初の蒸気船である「凌風丸」を製造。
2015年「明治日本の産業革命遺産 」として世界文化遺産に登録。

?大牟田から佐賀に向かう途中の、こんなところに、こんな凄いのがあっただなんて?という感じ。

佐野常民が読んだとされる
漢詩『三重津海軍所場偶成』
雪津佐野常民
壮士成團廿五人  
平郊盡處再迎春 
長流達海千年水  
巨艦列檣三重津
大小帆量風力展  
縦横陣冐雪威振 
錬磨熟亦辞酸苦  
同是丹心報国身
汽艦艤来十一秋  
海軍創隊日勤修 
先鞭奚啻我皇国  
期向五洲争最優

?読みながら説明を受けていたら、
涙が出そうになりました。 ?

妻「年取ったね」


◎西郷どん
頼む生きてくれ、
この薩摩のために、日本国のために
んにゃ、俺のために死なんでくれぇ?

よか、切りもうそう
ありがとうございます?
………まっこて、ありがとな?


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

八宗違目抄 p.160
文永九年二月  五十一歳御作 与富木常忍
第11章 止観に十法成乗観を引く

【本文】
惑者は未だ見ず尚華厳を指す唯華厳円頓の名を知つて而して彼の部の兼帯の説に昧し、 

全く法華絶待の意を失つて妙教独顕の能を貶挫す、 

迹本の二文を験して五時の説をカンガうれば円極謬らず

何ぞ須らく疑を致すべけん是の故に結して正しく茲に在るかと曰う」

【通解】
しかし、華厳の澄観などの惑者は、このことを知らず、なお華厳が法華より勝れていると思っているのである。

彼らは、ただ華厳円頓の名にとらわれて、華厳部は別教を兼ね具えた兼帯の説であることも知らないのであるこのため、全く法華経の絶待開会の意を失い、法華経特有の力用を貶し挫いているのである。

もし迹本の二門の教文をあきらめ、一代五時の説法をしらべて見れば、円頓至極の教えが法華経であることを間違えることはない。

どうして疑いをなすことができようか。これ故に大師

【解説】
惑者は末だ見ず尚華厳を指す
以上のような止観の真意が分からない「惑者」の代表として華厳経も円頓の教であると信じ込んでいる人々の僻見を破折している。

ここで「惑者」は具体的には唐代華厳宗の第4祖・澄観をさしている。すなわち、澄観は「華厳円頓」の名に迷って、華厳部が「兼帯の説」、つまり円教に別教を兼ねて説き、方便を帯びて説かれていることを知らずにいる。

そのために「法華絶待の意を失って妙教独顕の能を貶挫す」とあるように、絶待妙の立場から華厳経の文を法華経の一分として用いているのを誤って、華厳経と同列に置き、法華経のみが真実を顕しているのに、これを「貶挫」したのである、と。「貶挫」とは、退け、堕とすことである。

もし法華経の迹・本二門の経文を験めて、釈尊一代五時の説法の次第を尋ね、その帰趣するところが把握できたならば、「円極」すなわち円融円満の至極の妙理である一念三千の法門が、ただ法華一経に限られるということが分かるのであり、これは、全く疑う余地のないところであると断言している。

それゆえに、天台大師は止観の文で「如来積劫の懃求したまえる所.道場の妙悟したまえる所・身子の三請する所・法譬の三たび説く所正しく茲に在るに由るか」(0159−20)と、結論しているのである


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