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2018.2.11

2018年02月11日 (日) 00:49
2018.2.11

◎昨夜は
ママとツーショット撮れて良かった??
女性は三十代後半が一番色っぽい??
「させごろ、しごろ」?

◎わろてんか
喋らん漫才
新しいことをすると、
軋轢や摩擦が生じる。

ここからが君の腕の見せ所

四郎さんは楽器で喋るんです。


◎猿渡家は『藤原鎌足』の流れのようです?
そして「神主」の家系。
ある方「あなたが創価学会に入っているから
神さんがハリカイテいるのかも?」
私もそう思います。?

猿渡は、
「武蔵国橘樹(たちばな)郡
猿渡村(神奈川県)」
をルーツとする。 調べたら、なんと
「保土ヶ谷区」辺り。
昨年負けましたけど、神奈川6区。
ここもやっぱり縁があったのかな?!

豊臣秀吉の小田原征伐の時に、
なんと『八王子城』でいったん滅亡。
『八王子城』とは
創価大学の滝山寮があるところ。
やっぱり因縁が深いのかな?!?

「遠山家」に嫁ぎ生き残った
妹の息子・盛道が「猿渡」を継ぎ、
今日まで流れているようです。
「遠山家」とも縁があるとは?
?


神職、猿渡氏

大國魂神社の大宮司家は猿渡(さわたり)氏である。藤原姓 を称し、藤原藤左衛門兼延が武蔵国橘樹郡猿渡村に住して猿渡を名乗ったことに始まる。その子信元は鎌倉幕府に仕え、のち薩摩に移住して島津氏の客人となった。その嫡子信景はそのまま、島津氏に仕え、二男実景は武蔵国政所別当となり、武蔵国総社の神主を兼帯した。

以後、代々武蔵国総社大宮司を務めた。建武二年(1335)、猿渡兼資のとき、足利尊氏の命に従わなかったことから、神領を没収され流浪するということもあったが、その子兼重は武蔵国総社神主職を務めている。

猿渡氏は、大宮司職を務めながら兵馬の道にも携わっていたようで、戦国時代には小田原北条氏に属していた。そして、豊臣秀吉の小田原征伐が解しされた 天正十八年(1590)、ときの大宮司盛正は八王子城において戦死した。ことから血筋が絶え、その妹が江戸城主遠山景政の妻であったことから二人の間に生まれた盛道が猿渡氏を継ぎ、子孫連綿して現代に至っている。


◎常勝の空(関西の歌)に感動・涙?

作詞 : 山本伸一
作曲 : 杉野泰彦
一、
今再びの 陣列に
君と我(われ)とは 久遠(くおん)より
誓いの友と 春の曲
愛する関西 勇み立て
二、
我等の誉れ 錦州城(きんのしろ)
常勝の空 晴ればれと
凱歌(がいか)の友の 雄叫(おたけ)びは
波濤(はとう)の如く 天に舞え
三、
あゝ関西の 行進に
諸天の旗も 色冴えて
護(まも)りに護らん 我が友を
いざや前進 恐れなく
いざや前進 恐れなく

◎マンハント
日中合作映画。
「意見の相違は乗り越えられる」
近く観に行こう??


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

八宗違目抄 p.156
文永九年二月  五十一歳御作 与富木常忍
第三章 八宗所立の本尊を破す

【本文】
但し大日経には大日如来は釈迦牟尼仏なりと見えたり人師よりの僻見なり。

【通解】
ただし大日経には、大日如来は釈迦牟尼仏と説かれており、大日如来と釈尊とは別というのは後世の人師たちの僻見である。

【解説】
このことについて大聖人は、真言天台勝劣事で「又毘盧遮那と云うは天竺の語大日と云うは此の土の語なり 釈迦牟尼を毘盧遮那と名づくと云う時は大日は釈迦の異名なり加之旧訳の経に盧舎那と云うをば新訳の経には毘盧遮那と云う然る間・新訳の経の毘盧遮那法身と云うは旧訳の経の盧舎那他受用身なり、故に大日法身と云うは法華経の自受用報身にも及ばず況や法華経の法身如来にはまして及ぶ可からず法華経の自受用身と法身とは真言には分絶えて知らざるなり法報不分二三莫弁と天台宗にもきらはるるなり、随つて華厳経の新訳には或は釈迦と称づけ 或は毘盧遮那と称くと説けり故に大日は只是釈迦の異名なりなにしに別の仏とは意得可きや」(0135−18)と仰せられている。

本来、大日如来とは毘盧遮那を訳したものであって、華厳経の教主である盧遮那と同じものなのでる。華厳経旧訳の盧遮那、新訳の毘盧遮那は釈迦仏と同じとされているから、毘盧遮那すなわち大日如来は釈尊の異名といえるのである。


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