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2017.10.13

2017年10月13日 (金) 00:03
2017.10.13

◎Surprisingly, the Ukrainian lady will be good-looking.
ウクライナ女性はなんと美しいのだろう?
?

That I'm pointing at eye drops...,...,....
目薬を指していると………

My wife "SHUPASHUPA of an eye,?"
妻「目のシュパシュパするね?」

I "My wife is seen so much, and,......"
私「奥さんをあんまり見て……」

"AHAHAHAHA.........??"
「アハハハハ………??」

"Received so much? (Laugh)?"
「そんなに受ける?(笑)?」


◎北海道・神奈川・九州?
やっぱり北海道と神奈川とこちら九州が危ない?北海道と神奈川にも飛ぼうかとも思いました。
「あんたは狂信の毛がある」(砂原)
「娘も同じ」
常識的に電話で頑張ります?
北海道10件
神奈川10件
九州………どこまでできるかな?

研修会帰りの電車の中で、さりげなく……
「明日から本格的に回らんなん」
中島税理士
「あ、例の友達から電話ありましたよ」
「なら中島さんとこは来なくていいですね」
「他からもかかってきたですよ」
「周りに学会員が多いのは福運のあるということですよ、なら私から奥さんにこれをはい?この人は?の限定の法定チラシですよ」
?


◎税理士会一日研修会
「先生なんで言ってくれなかったの?」
−−後ろからブスッ?
今日の講師はとても分かりやすかったです。

?非上場大会社の株式評価は1.7倍?
減税の裏に大増税あり?
減税というけど…富裕層については大増税。
このような「陰徳」は野党とマスコミの目には入らないようです。
さすが与党?
?


◎本日の名字の言
「秋のいねには早と中と晩との三のいね有れども一年が内に収むる」

十如是事 411ページ
【本文】
此の道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども同じく一生の内に顕はすなり、上根の人は聞く所にて覚を極めて顕はす、中根の人は若は一日・若は一月・若は一年に顕はすなり、下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば一生の内に限りたる事なれば臨終の時に至りて諸のみえつる夢も覚てうつつになりぬるが如く只今までみつる所の生死・妄想の邪思ひがめの理はあと形もなくなりて本覚のうつつの覚にかへりて法界をみれば皆寂光の極楽にて日来賤と思ひし我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり、『秋のいねには早と中と晩との三のいね有れども一年が内に収むる』が如く、此れも上中下の差別ある人なれども同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思い合せてあるべき事なり。

【通解】
仏道に入る人にも上中下の三根の異なりはあっても、同じく一生のうちに顕すことができるのである。上根の人は聞いたその場で覚りを極めて顕すのである。中根の人は、もしは一日、もしは一月、もしは一年のうちに顕すことができる。下根の人は。仏法の理解に進展がなく、行き詰まったままであり、しかも、一生のうちに限られたことなので、臨終の時に至って、諸の見ていた夢も覚めて寤になるように、今まで見ていたところの生死・妄想の間違った考えや偏見は跡形もなくなって、本覚の寤の覚りにかえって法界を見るならば、みな寂光の極楽であって、日ごろ賎しいと思っていた我が身が、三身即一身の本覚の如来となるのである。『秋の稲には、早稲と中稲と晩稲との三つの稲があって、いずれも、一年のうちに収穫することができる』ように、これも、上中下の差別があっても、同じく一生のうちに諸仏如来と一体不二であると思い合わせることができるのである。

【解説】
法華経によって仏道修行をする人々にも上・中・下の三根の相違はあるが、しかし、必ず一生のうちに我が身が本覚の如来でることを覚知し、仏の境地を顕現することができると明かされているところである。
 さて、三種の機根の相違であるが、まず、上根の衆生は「聞く所にて覚を極めて顕はす」とあるように、法門を聞くやいなや、その場で直ちに覚りを極めて仏の境地をあらわす人々であり、中根の衆生は法門を聞いて修業を始め、早ければ一日、あるいは一月、一年というふうに今世、生きている途中で自らが本覚の如来であることを覚知して仏の境地を顕現できる機根であると説かれている。
 最後に下根の人々は本覚の如来を覚知する時が先へ先へと延びていくが、所詮は一生の間に成仏することは決まっているので、臨終の時において初めて夢から覚める時のように生死妄想の邪見が消え失せて、本覚の覚りに還って我が身が三身即一身の本覚の如来身であることを覚知することができる、と仰せられている。この三根の相違について、再び稲に譬えを借りられ、『秋に刈り取るにも早稲・中稲・晩稲の三種の相違があることにたとえられて、しかし、いずれもその年のうちに収穫できる』ことを通して、どんなに機根の相違があっても、一生のうちに諸仏如来と一体不二であると覚知することができることを強調されている。



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真言見聞 p.148 文永九年七月
第15章大日如来の存在につき難ずる
与三位房日行 五十一歳御作

【本文】
一、真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云、 

【通解】
一、真言経は法華経より外に大日如来の説いたものである。

【解説】
真言宗では「真言は法華経より外に大日如来がといたものである」と主張し、真言が法華経等を説いた釈迦如来とは別の大日如来が説いた教えであるとしている。


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