
◎異相勘定
 恵瓊は何か切なくなった。
 (この静寂の底で、小ざかしい人間どもが、奸智をかざして殺し合わねばならぬとは‥……)
 何のために? 何をのぞんで‥……?
 
 「ーー地獄、極楽の相違は、紙一重でござる。人間は生きるためにあるのか? それとも生かすためにあるのか? 前者をかざせば無間地獄へ、後者をたどれば極楽へ達しましょう」
 
 恵瓊
 「天下には勢いというものがござる。その勢いに乗り得るものと、乗り得ぬ者がござっての。三度、四度と攻められて、辛うじてわが家を失わぬ程度のものにどうして中央が狙われよう。以前からも申すとおり、こんどの事は時の勢いに乗り得た者が、乗り得ぬものに仕掛けた戦、それゆえ、功は急がずとも自然に天下の形は定まろう。ここのところを噛み分けられて、よくおん大将を説いては下さるまいか」
 
 一君万民の惟神(かんながら)の道に立つと、民が民を私有してよいいわれはない。したがって天兵なれば主も取らずと‥……この思想は、信長の父の謹皇、敬神の行為に大きな影響を及ぼしたばかりでなく、平手政秀を通じて、信長の天下統一の夢をはぐくむ一つの手引きにもなっている。
 
 官兵衛はむしろ楽しそうに、
 「それだけご承知あれば充分に駆け引きできることでござる。時に、清水宗治一人、貴僧のお力で討たせられたい。このとおりでござるよ安国寺どの」
 
 「黒田どの!」
 「何となされた、顔色が変わったが」
 「もしや、織田の右府さまのお身に、何か変事があったのでは‥……」
 すると官兵衛は、はじめて性来の鷹のような眼になって、
 「あった! と、申したら何となされたなさる。さ、黒田官兵衛好高、性根を据えてご返事をうけたまわろう」
 
 「と言われると、貴僧は承知したが、毛利方では絶対に承服せぬと言われるか」
 「いかにも」
 「よしッ!」
 と、黒田官兵衛は大きく言った。
 「ここは天意がいずれにあるかを試すところ。貴僧ひとつ、おん大将に会うて下され。そして、それがしに申したところをそのまま、おん大将にお告げ下され。それでおん大将に思案があるかないかがご運の決まるところだ」
 
 「‥……のう安国寺どの、およそ談判不調となれば三つの場合しかないはずじゃ。その一つはわれらのおん大将が破れて自滅してゆくか。それとも毛利方の三家が地上から姿を消すか、もう一つは共に倒れて誰かが漁夫の利を占めるかじゃ。そうハッキリ分っていながら毛利方がどこまでも武門の意地にこだわるとあれば、この決をとるのはおん大将よりほかにはない。さ、お供申そう」
 
 官兵衛の言葉の無造作は、無責任な放言ではなくて、すでに底の底まで計算して肚を決めているものの放胆さと分ったからであった。
 
 恵瓊
 (これはいっぱい喰わされたかも知れぬ)
 
 (もしそうだとすれば秀吉も大した者ではないが‥……)
 
 「‥……むろん城にこもる五千の生命はそのまま助けるが、そのほかに、毛利方から割譲を申し出ている五ヵ国のうち、二ヵ国だけは宗治が忠死に免じて受け取るまい。よいか、こう申せば宗治は類いまれな忠臣ゆえ、必ず主家のため、五千の生命のために自決する。‥……」
 聞いているうちに、恵瓊はガタガタと全身が震えて来た。
 
 「のう官兵衛、安国寺が引き受けてくれてよかったぞ」
 「仰せのとおり」
 官兵衛は相変わらず頬から微笑を消さずに、
 「これで毛利家の士道は一段とかがやき渡り、清水宗治が名は武将の手本として、永遠に青史の上に残りましょう。おめでとう存じまする」
 と、恵瓊を煽った。