◎民の声
しかし家康が、その人生で最も多くを学んだのは、実は、丸柱から河合、拓殖、鹿伏兎とぬけ、鈴鹿川の川原に沿って伊勢の海の白子浜へぬけるまでの一昼夜の旅であった。
‥……雪齋禅師のことを思い浮かべた‥……
「ーーこの民聴の語を深く深く味わいなされ」
その声を聴くためには、まず「自我」を捨てて「無」になることであり、「無」になりきることが、実はより大きな「我」の確立の基礎なのだとよく説かれた。
そして家康は家康なりに、その「無」を身につけていたつもりであったが、返り血の百姓、孫四郎の出現は、そうした家康を、
「ーーまだまだ」と、あざ笑ってやまなかった。
(民の声に従うほかに真理はない‥……)
その意味を味わい直すと、信長の死までが、決して不慮の死ではなく、自然死であったような気がしてくる。
信長は、はじめて民の声を、最もよく聞いて蹶起した選ばれた傑物であった。
彼は、戦乱に飽いて平和を渇仰する民の声を代表して、あらゆる敵にぶつかった。
いやしくもそれが国内治安のさまたげになる存在と見てとると、叡山の僧徒であろうと本願寺の信徒であろうと容赦しなかった。
(このごろでは、すでに信長は民の声を離れて動いていたからではなかろうか?)
民の声は、このあたりで彼に休養を求めていたのに、彼は、外交交渉の余地ある中国征伐へ、遮二無二すすんでいったのではなかったろうか‥……?
「そうか。あきらめた‥……さ、勝手にこの首をお斬りなされ」
「首を斬れと‥……」
「仕方がない。舟を出さぬと言うたら斬るであろう。わしが斬られるのを恐れて舟を出したら、こんどはご領主の手で、わしばかりか、家族親類みな斬られる。これが‥……乱世の百姓の‥……悲しいさだめと諦めている。さ、お斬りなされ」
家康はぐさっと胸へ短刀を突っ込まれたような気がした。
とにかく表向きは、国と民との守護をするはずの武将であった。それがその実は、武器をもった厄介者と見られている‥……
白子浜の百姓孫三は、いやといえば理非にかかわらず斬るものが侍だと思いこんでいた。
武将にとって、これほど大きな不信がまたとあろうか。
彼らは、武力に頼ってそれに護られた経験はない代わりに、かえって塵(ちり)あくたのように蹂躙されて来ていたのだ‥……
「ーー聞いたか家康。これがまことの民の声じゃ」
虚空で叱咤している雪齋禅師の鞭が唸りを生じてふりおろされて来たのである。
「ーー信長への義理‥……」とは果たして何であろうか?
それは乱世に新しい秩序を打ち立て、百数十年続いて来た戦いに終止符を打つことで、その意味では信長の意志と百姓たちの希いとは同じものであった。
(それなのに、わしは‥……)
‥……思わずポンと膝を叩いた‥……
(よしッ、これでわしの心は極りそうだ‥……)
家康は小さな義理に拘泥することなく、どこまでも一筋に信長の意志の、真の承継者であるべきだったと悟ったのだ。