◎落日前後
ここ百二十年近く、戦乱に明け、戦乱に暮れて来ている日本で、誰の武力にも屈服せず、南北朝のころから足利時代を通じ、唐土や南蛮の船舶と自由に貿易をつづけながら、特異な平和境として莫大な富を積んできた堺であった。その堺の町民を威嚇し、はじめて自分の直轄地としたのは信長だったからである。
この街の空気には大名も町人もない。街へ着くといずれも二、三の供を連れるだけで、気軽に出歩き、気軽に遊んだ。むろん豪商たちとは茶道や遊芸を介した友達づきあいで、その方がまた諸国の情報や、新しい知識をさぐるうえにはるかに便宜があるからであった。
「怪しい者がつけ狙っているとは!?」
「まあ、よい‥……」
(たしかに大坂からつけられているが‥……)
‥……この街の娘たちが花束を持って現れたとき、家康のギクリとしたのは、見覚えのあるそれらの顔が、点々と迎えの列に混じっているのに気づいたからであった。
家康がその男の顔だけなぜそのようによく、覚えているかといえば、同じ男が、今朝難波津を発つとき、見送りの中に確かに立っていたからだった。
(腕も胆も並みの者ではない‥……)
「時に、会合衆の一人、納屋蕉庵どのが、火急にお目にかかってお耳に入れたいことがあると申しておられまするが」
そう言えば娘はあのとき、たしかに納屋蕉庵の娘、木の実と名乗っていた。
「なにお袋どのをご存じと」
「はい、まだ刈谷にあられるころにな。そのころそれがしは、竹之内波太郎と申し、血気の前髪者にござりましたが」
「昨日を忘れ、明日に心がかりのない者には、吸う息、吐く息みな不老長寿の妙薬。それに私は、ルソンへ二度、天川(マカオ)へ一度、シャロムへ一度旅して参りました。狭い日本を離れて旅すると、これもまた若返りの妙薬にござりまする」
「明智日向どの家中の者が、わしのあとを?‥……」
(光秀の家臣が家康をつけている‥……そして、細川家へ嫁いでいる娘が‥……)
「京に事変のある節は、徳川どのご用をうけたまわるわれら別懇の茶屋四郎次郎どのが駆けつけて下さることにはなているが‥……せっかく凪(な)ぎかけたこの日の本を、また暴風雨の中へ逆戻りさせましてはなあ」
「はい。尼ヶ崎は、右府さま甥御の城なれど明智さまの婿。もう一つは根来の衆徒が、たま薬を仕入れてゆき、それから、筒井順慶さまご家来衆が、あわてて堺のかくれ屋敷から引き上げられました」
(光秀に事実叛心があるとせば、手兵を連れずに京へとどまる信長は‥……)
「待て。まだある‥……」
‥……
「その方も、高力、柏原とともに町の見物と見せかけて、そっと岸和田へおもむき、信孝どののご陣所の空気を探れ」
「信孝どのの‥……」
「しーッ。それで、ご陣所に何の変わりもなくば、すぐその足で京へおもむくのじゃ。わけは言わぬ。が、右府さま、そのまま京にあらば、おん目にかかって、家康は、旅の予定を早め、二日には京へ立ち帰り、右府さまご出陣をお見送り申し上げるとお伝えせよ」
「えっ?」‥……
‥……「何か、お心にかかることが‥……」
「無事であらばよい。が、夢見がわるかった。急げ平八」
(これは何かある)
信長の豪勢なもてなしを受けた家康一行は、安土、京、大坂を見物し、5月21日に堺に着きます。家康は堺で、熊の若宮こと竹之内波太郎が改名した納屋蕉庵(しょうあん)と再会。蕉庵は、光秀の動きから京に不穏の兆しありと告げます。同じ日、信長は中国攻めの準備で京の本能寺に入りました。蕉庵の予言通り、光秀は丹波の亀山城に兵を集め、6月2日早暁、本能寺を急襲。信長は濃姫とともに壮絶な死を遂げました。
「信長討たる」の報に、家康は伊賀を越えて三河へ戻ります。道案内を買って出た蕉庵(しょうあん)に命運を賭し、待ち受ける無頼の徒や明智の追及をかわし、無事、三河へ到着。敵中突破で家康が取った優しい態度は、暴徒と化した百姓たちを変えました。「優しい人を殺して、ひどい人が天下を取ったら、また泣かねばならねえ」という彼らの言葉で、家康の心に「民衆の声を聞け」という雪斎禅師の戒めがよみがえります。