◎本能寺
信長が、森欄丸兄弟などの近習約五十人ほどを従え、本能寺に入ったのは五月二十九日の日暮れであった。
あんのごとく、濡れた輿から出て、本能寺の奥殿へ通った信長の機嫌はよくなかった。
「お濃、そちまで、わざわざ何で来ているのだ」
「そちのことを世間ではバケモノだと申しているぞ」
「はい。私もときどきそのような陰口を耳にいたしまする」
「女子はな、三十三を過ぎたら、もはやそっと隠れて、わが身の生を楽しむものじゃ」
「はい。でも、まだ私は二十代でござりまするから」
「京中の公卿の虫干しではないか」
「仰せのとおり」
右大臣という官位と、おびただしい人々の追従とが、二人をぐいぐい引きはなして、やがてどちらも見えない位置に拉っし去って行きそうだった。
「ハッハッハ、お濃はやはり女子じゃの。もし信長の身辺を狙う者があったら、小姓どもの酔う酔わぬくらいで事が左右すると思うか。本能寺は要害の地ではない。それに信長の身辺にはいま、何の兵力もないではないか。案ずるな、乱酔して喧嘩するほどは、許しはせぬ」
(昔と違った!)
「そのとき、おれは中将より一ツ年上の二十七であった。のうお濃……」
「はい。あっぱれな武者ぶりでござりました」
「立ったまま湯づけを流しこんで……あれは三椀だったかな」
「はい、三椀、息もつかずに召し上がられ……」
「濃、扇!」
「源三郎、よく見ておけや。人の一生、進むも退くも電光石火でなければならぬ」
人間五十年
下天のうちをくらぶれば
夢まぼろしのごとくなり……
「道順が少し、違うではないか。誰か物頭か大将にうかがって見るがよい」
「そうだ。これでは夜半に京へ入る。大変な遠廻りじゃ」
(信長が閲兵する……)
(明智勢が、京へのぼろうとする……)
「おかしなことがござりまする。明智日向守の軍が西国へ向かわずに京をさして押し寄せる様子、叛逆の心があるのではござりますまいか」
「まして日向守どのは、何ものにもかえ難いご恩をこうむっている。もし京へ向かって来たとて、それはわが君の命であればこそのことであろう」
事の破れるときには必ず何かしらの前兆はあるものだったが、この一語で信長父子の運命は決した。
「天下人」とは決して実力だけでかち得る称号ではなかった。眼に見えない運命が、どこかで大きく支配の糸を握っている。その糸の存在に気づかず、無二無三に事を急ぐのは他目(よそめ)からすればすすんで滅亡の淵におどり込んでゆく愚に見えた。
近くは武田勝頼がそれであり、遠くは今川義元が好い例だった。
(分を知るが子孫の繁栄のもとらしい)
何のために戦うのか?
「ワーッ」
「誰かある!」
「下郎どもが酔いしれていさかいを始めたようじゃ。静めて参れ」
「何者の仕業、もの見せよ。お蘭!」
「なに、桔梗の紋と!? さては」
「うむ、光秀か」
「上様! 日向守ご謀叛と覚えました。……」
「うぬっ、ハゲめが……」
(光秀が謀叛した……)
ふしぎに腹は立たず、何か滑稽な気がして笑い出しそうだった。
そのくせ、あの用心深いハゲめが、考えぬいて謀叛をした以上、手配りに一分の隙もなく、遁(の)がれることなど思いもよらぬとはっきり計算できるのだった。
(大笑いだ……)
(これがおれの最期になるか……)
(ハゲめが巧々(うまうま)とやりくさったわ!)
御前の肉親で、その生涯を完了した者はひとりもいない。父の道三も、母の明智御前も、弟たちも、異腹の兄も、みんな胴と首を切りはなたれて戦乱の犠牲になった。
「濃! うぬも落ちよ」
「落ちませぬ」
「なに、この信長を辱かしめようとか、信長は最期に女子の力はかりぬぞ」
「濃は女子ではござりませぬ。それより、おみずからの戦は、もはやおやめになさりませ」
「たわけめ!」
「うぬの指図を受けるか信長が」