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あれから三十五年経つぞ

2016年02月07日 (日) 22:33
あれから三十五年経つ

◎前夜の宴
「呆れたハゲだ。自分だけ嬉しがって、この暑気を忘れて発ちくさった。それにしてもひどい匂い……家康も、これには閉口されたであろう」

「それはな、もう一度大宝院へ参って坊主どもをたずねてみよ。たぶんそちが使いに参る以前の仕業じゃ。ハゲめの腹立ち癖は知れてあること。ムッとしてしもうて、みんなの軽挙を、戒めていくのを忘れて大宝院を出てしまったのじゃ」

家康は、ちらりと眼もとに笑いを見せて……
「明智どのは、羽柴どの軍配の下で働くことに快からぬのかも知れぬて」

(よほど備中の戦に心を痛めているのであろう)

「おお徳川どの、よくぞ参られた。さ、今日は、信長みずからご歓待申すぞ」

ただ徳川家の家臣だけはこれを見て、わが主君へのなみなみならぬ崇敬と、心の底から感激したのは言うまでもない。

ところが近衛前久は、事ごとに信長の気色をうかがう様子に見えたので、家康はわざと田舎者をよそおい、なるべく信長の神経にさわるまいとした。

(この晴れの場で、寺院の内を血で汚しては……)

「まことに結構! さすが、でござりまする」

「梅若! そちにも褒美を取らす。それっ」

「その方、もう一番舞い直せっ」
家康はホッとした。
信長の怒声を聞いて、近衛前久までがさっきから震えだしていたのだった。
(この声はもはや、右大臣の声ではないが……)

「のう、浜松二人でかような心で接せるときが、また、あるかどうか」

「これは勿体ないことをうけたまわるもの。すでに天下は平定しかけておりまする。この次にはどうぞして京でこのご馳走に預かれまするよう、家康も決して労はおしみませぬ」
「いや、これは一本やられたわい」

「あれから三十五年経つぞ。いま、それを指繰ってみていたのだ」
「仰せのとおり……」

あれから……とは、二人が最初に会った家康が六歳のときのことであった。

(三十五年、この人とよくも事なく交じわって来たものだ……)
二人が同盟してからでもすでに二十一年経つ。
「では大事に旅をせられるよう」
「ご免下され」
それがこの世の二人の交わした最後の言葉。

家康、四十一歳。
信長は八ツ年上の四十九歳。
天正十年(1582)の5月20日の宵であった。

二十日の夜に至って、はじめて光秀はもう一度みんなを集めて、
「今や、当家は危急存亡のときを迎えた」
重々しく口を開いて、ハラハラと落涙した。
「……よいか、いながらにして自滅を待つより、先んずれば人を制すの古語どおり、当方から兵をあぐるに如かずと考えた。方々の心中を洩らされたい」

「時はいま……土岐(とき)(明智氏)はいま、天が下しる五月かな……」

(この二人の間に、何か不幸な衝突がなければよいが)

(これはおかしい。何か考えているようじゃが……)

家康はすでに上洛して京見物を終り、大坂へ向けて発ったとのことだった。
……
信長も二十九日には上洛して来て本能寺に館する。
ほとんど手勢を持たずに出て来る信長。
(どうやら信長は討ち取れそうだが……)

表面はどこまでも備中出陣と見せ信長襲撃のときを一日の夜半から二日の早暁と決めて着々戦備に没頭した。

いずれも大将以外は中国出征と信じきっての進発だった。

本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区にある、法華宗本門流の大本山。明智光秀が謀反を起こし織田信長を討った「本能寺の変」で知られる。塔頭が7院ある(恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院)。


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