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もっと深いところを

2015年12月08日 (火) 11:38
もっと深いところを

◎秋空
弥四郎「何よりも、若君、大殿ともご無事のご凱陣、祝着に存じまする」
……
「それに重なる姫君のご誕生、これでお家は万々歳にござりまする」
「弥四郎どの」
「はい」
「お家は万々歳などと……それでこなたの企てはどうなったとお言いなのじゃ」
……
「こなたの企てとは?」

「はい。予のもとへ、大賀弥四郎に叛心ありと密告してきたものがある。……」

だからと言って、大賀弥四郎が、あのように冷たく自分を突きはなすというのは何という思いあがった仕打ちであろうか。
(まるで自分の女房か召し使いのように……)

「見たならば見たというがよい」
「はい、見……見……はいたしませぬが……何か……減敬さまから……よいお便りでも?」

(血の道で狂いかけているのではあるまいか……)

(琴女)
怖ろしいときには、鬼神にも見え、夜叉にも見える御前だったが、それが何かのはずみに、たまらなく哀れな、いじらしさにも変貌する。
(どちらがほんとうの御前なのか……?)

信康の姉の亀姫ーー
「なぜでございます?」
「それは、三郎どのやお父上がわるいのではありませぬ。そうせねば、生き残れぬ、もっとむごい世間があるゆえ……」
琴女はびっくりして御前を仰いだ。いままで、誰がそれをいっても、決して聞き入れようとしなかった御前だった。その御前の口から思いがけない言葉を聞いて、琴女はわが耳を疑った。
亀姫もまたけげんな顔で母を見ている。

「姫! ……」
「はい」
「こなたは母の言葉を素直に信じてくれないのですか」
「フフフ、お言葉よりも、もっと深いところを見ています」
「……」
「お母さま、何かお考えがあるのでしょう。姫にもお打ち明けなされませ。お母さまらしくもない!」
そう言われると御前の眼にはまたキラキラと露がやどった。

(御前の涙は何を意味し、涙の底の眼の光は何を物語るものであろうか?)

亀姫
永禄 3年(1560)〜寛永 2年(1625)
 永禄 3年(1560)、駿府で生まれた家康公の長女で、母は信康と同じ瀬名姫(築山御前)。誕生した年の 5月に桶狭間合戦が起こり、結果、駿府に置き去りにされることになり、母である瀬名姫、兄である信康とともに今川氏真の人質となった。永禄 5年(1562)、3歳の時に人質交換により今川氏の駿府から瀬名姫、信康ともども岡崎に入る。
 天正元年(1573)、甲斐武田氏との対抗上、家康公は北三河の山家三方衆の作手城主奥平貞能(さだよし)・定昌父子の懐柔に努め、その布石として亀姫を定昌に嫁がせることを約した。これは家康公の同盟者であった織田信長の強いすすめもあったといわれている。長篠城を与えられた奥平父子は、天正 3年(1575)、作手城を退去して長篠城に入っているが、その 2ヶ月後に武田勝頼率いる 1万8000の兵に包囲されてしまう。しかし、奥平父子は籠城して城兵500で死守。この後、武田軍は長篠城外の設楽原で、鉄砲隊を主力とする織田・徳川連合軍に大敗してしまう。信長は奥平父子を最大の功労者として、定昌には信の一字を授けて信昌と名乗らせている。
 天正 4年(1576)、17歳になった亀姫は、三河新城城主となった奥平信昌に嫁ぐことになった。信昌は22歳であった。以後、信昌は家康公のもとで軍功を重ねていく。亀姫は信昌に生涯 1人も側室を置かせず、家昌・家治・忠政・忠明の 4男と、 1女をもうけた。又、亀姫は天正16年(1588)には家治・忠政・忠明の 3人を連れて駿府城の家康公を訪ねており、家康公は孫たちを養子として松平の称号を授け、家治には家の一字を授けている。関ヶ原合戦後の慶長 6年(1601)に信昌は美濃国加納 10万石の領主となった。そのため、亀姫は加納御前と通称され、化粧料3000石を与えらている。信昌は翌慶長 7年(1602)に隠居して、3男の忠政が加納城主を継いだ。
 慶長19年(1614)、宇都宮城主であった長男・家昌、加納城主を継いでいた 3男の家昌が没し、翌元和元年(1615)には夫・信昌も没してしまうという相次ぐ不幸に見舞われ、寡婦となった亀姫は落飾して盛徳院と称し、家昌の領地である下野国宇都宮を 7歳であった家昌の嫡男・忠昌に継がせ、さらに同じく 7歳であった忠政の子・忠隆には加納城を継がせ、自らは宇都宮城に住み、後見役として奥平家を守ることになった。
 又、亀姫は気性の激しい女性としても知られ、元和 8年(1622)、宇都宮城主であった孫の忠昌が、下総国古河へと転封されたことから、忠昌ともども古河に移った亀姫と、その後に宇都宮に入封した本多正純との間に確執が生じてしまう。亀姫は深く正純を恨んだといわれ、これが宇都宮釣天井事件の引き金となり、結果、正純は配流の身となり、再び忠昌が宇都宮城主に返り咲くことになった。
 この事件後、加納城に戻った亀姫は、寛永 2年(1625) 5月27日に66歳で没し、加納の盛徳院に葬られた。又、新城市の大善寺には、4男・忠明が建てたといわれる亀姫の供養塔がある。


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