◎嵐気のみだれ
すでに減敬を怪しい奴と睨みだした信康。その信康に勝頼と協力するようすすめるためには、減敬はいない方が得策と思われるーーそう説くと築山御前は、減敬自身が呆れるほど素直にうなずいた。
すでに御前の夢は甲州へ飛んでいるらしい。
(いかに乱暴な信康でも母は斬るまい)
「いよいよ殿は自滅の戦に手をかけたぞ」
「大賀どの」
減敬はきびしい眼になって、
「拙者は本日岡崎を退散しようと思う」
「ほほう、それはまたどうしたわけだ」
「信康さまに気づかれた」
「どっちを? 色事か陰謀か」
「のう減敬どの、事の起こりは夫婦の不和、それが昂じて奥方が」
(このまま姿をかくすが安全……)
「あんまりむごい! 野中さま、このとおり……お助け……お助け……あっ、血だ!」
「減敬、そちも医者ではないか」
「妙な面だの減敬、はんぶん怒って、はんぶんわらっている。こんど生まれて来るときにはな、もうちっと大きな胆をもらって来い」
「減敬が首は、若君の血祭りになりましたぞ」
◎叛心
三方ケ原でさんざん信玄に翻弄された家康が、半歳あまりでついに主導権をとりもどしていったのである。
「……あれはの、さんざんおれももてあそんだ女だ。男がなくてはいられぬ女、我慢のまるでない女、殿もそれに愛想をつかせて近よらぬ女……と、考えてくると、八蔵、あの伜じゃとて、誰の胤(たね)かわかったものではない。あるいはそれを一番疑っているのは殿かも知れぬ。ハッハッハッ、その伜に若君若君とおかしなものだ世の中は」
「人生、罠のないところなどあるものか。が、それはべつにして勝てると思うか負けると思うかと訊いているのだ……」
人間が人間を魅了するとき、その弁舌にはあやしい妖気がこもってゆく。
(匹夫から身を起こして、一国一城の主になる、こんな男でなければなるまい……)
岡崎から姿を消した減敬からはまだ何の連絡もない。
「よいかな、それで拙者は岡崎城のあるじ、お身たちにもそれぞれ松平一族のいる小城を一つずつわけよう。ハハハハ、城持ちになったうえで、またその後の策は考えることにしての」
「何の真似とは情けない。仕舞いじゃこれは」
◎破滅
「わらわはもう小山田兵衛が妻、敵の娘をそのままにして出てゆくものか」
「そうそうお万の方さまもご懐妊、ご誕生はこちらの姫さまと同じころになるかと便りがあったそうでござりまする」
(そうだ。こやつも生かしたままでは出てゆけぬ)
殺して殺されて、憎んで憎まれるのが人生ならば、手ぬるい情けなど、築山御前には愚の骨頂に思えた。
「フフフ、お祝いではあるまい。殺してこいといったろう、困ったお人じゃ」
「.……若殿はまた、なんであのように父御のいいつけを軽んじられるかのう」
すでに運命は岡崎を見捨てて、いまや大賀弥四郎のためだけに微笑んでいるかのような気がした。
もはや御前は彼にとって決して主君の正妻ではなかった。自分の陰謀に利用してきた一人の賢こからざる好色な女にすぎない。
「大事の前の小事ゆえ、斬って捨ててもよいのだが……」
「姫を質に……」
「知れたことだ。いわば徳姫は、その後の戦で織田方をおさえてゆくに、またと得難い大切な武器……しかと心に刻んでおけ」
……
「わかったかッ」
「は……はい」
「自分の妻女もあやつれないで、何で天下がとれるものか」