◎暗雲うごく
勇ましさではかえって父にまさっているかも知れぬ。
(鍛え甲斐のありそうな子ぞ)
いま三の丸にいる、わが生母於大の方が、この城に嫁ぐときに持って来た種だという……
そのときの主は父の広忠だった。
それが子の自分となり、さらに孫の信康になっている。
(この次にはどんな城主がここに立って夕陽を浴びるか……?)
「そう言えば、おかしい節がないでもない……」
……
(何かある……)
……
「ごめんなされませ」
……
「待てッ! うぬは話を立ち聞いたな」
……
「待てッ」
「甲州軍に対する備えはできた。これからは信玄公の生死を確かめに、父は駿府まで攻めいるつもりじゃ。よいか、この城は難攻不落、外からは断じて落ちぬ。内を心せよ内を」
父の意志に添おうとする素直ささえ失わなければ、信康は決して愚昧な若殿ではない。
(ここで小侍従が死んだら……)
甲斐を発つ日に会った勝頼と勝頼の秘命をおびて来ている減敬や自分の上に破滅が来そうな気がして心がふるえた。
「あやめは……あやめは……減敬の子ではございません」
「減敬は、勝頼さまから、築山御前のもとへ使いに寄こされたお人でござりまする」
(母が減敬とはかって武田家に内応している……)
◎油蝉(あぶらぜみ)
「ーー信康はわが子なれば、いかにしても、武田のお味方になし侍りなん。徳川、織田の両将はわらわ計らう手立て候えば、かまえて失い申すべし。こと成就のあかつきは、徳川の旧領をば、そのまま信康に賜りなん。また、わらわのことはご被官の内にてしかるべき人の妻となしたもうか。この願いごとかなえたまわば堅き請け文賜るべし」
「妻に謀られて生命をおとす家康どの……」
敵は外にはなくて、わが足もとで爪をといでいる。それを知らずに、駿河から山家三方の奪還をゆめみて岡崎を発っていった家康が、何か人生悲劇の象徴に感じられる。
「ホホホ……琴女が妹の喜乃(きの)はの、わらわが旨くふくめて徳姫のそばにおいてあるのじゃ。案ずるな」
「これで当方よりの申し条は、みなお聞き入れなされたことに相なりまする」
「あやめは……あやめは……みなこの信康に白状したのだ……減敬と二人、母上をろうらくして、この岡崎を乗っ取ろうと……」
母を憎み、母をさげすむほど子にとって、辛いことはなかった。
(減敬と小侍従を斬らねばならぬ!)
「よしッ、申し聞かそう。あやつはな、あやめが実父だと名乗りながら他人であった。しかも甲斐の生まれ……といったら後は訊くな」
が、もう一人の小侍従はどうして斬ったらよかろうか。
「母御のためじゃ!」