「人身うけがたし」……この根本的な恩恵を当然と思っている間は、それを生かすことはできないからであります。これに反してそれを「辱い」(かたじけない)と思い、「元来与えられる資格もないのに与えられた」と思うに至って、初めて真にその意義を生かすことができるのでしょう。
「大和」……そして皇室が変わられなかったということなども、わが国の歴史が穏やかだったことの、何よりの証拠と言ってよいでしょう。
たとえば、徳川時代の下級武士の収入は、裕福な商人の幾十分の一にも達せず、名主や庄屋の如きもその収入は、貧乏士族の十数倍否、数十倍もあったにもかかわらず、社会の上下の別は、厳として侵すべからざるものがあったのであります。
「教えるはすなわち学ぶことである」……「一寸の虫にも五分の魂」……私としては、それに対処し得る道はただ一つあるのみであって、それは何かと言うと、人を教えようとするよりも、まず自ら学ばねばならぬということであります。
ところで弾力のある人間になる最初の着手点は、なんといってもまず読書でしょう。……また短歌や俳句などに興味を持つことも大切です。
それに人間というものは、お互いに自惚れの心の強いものですから、自分ではそうとうお役に立っているつもりでも、これを外から見れば全く場所ふさぎにすぎないということにもなるのです。
偉人の伝記を読むのがよいでしょう……真の内面的動力はいかなるものであったか……かくして偉人の伝記を書物を繰り返して読むということは、ちょうど井戸水を、繰り返し繰り返し、組み上げるにも似ていると言えましょう。
万葉集
ペスタロッチの隠者の夕暮
プラトン饗宴
ルソーのエミイル
「その人を知らんと欲せば、まずその友を見よ」
第一には、それがいかなる人を師匠としているか……
第二は、自分の目標……
第三には、その人が今日までいかなる事をして来たかということ……
第四には愛読書……
最後がその人の友人いかんということであります。
……結局は一つの根本に帰するかと思うのです……結局はその人が、師の人格の照らされて初めて見出だされるものであって、人間は師をはなれては、生涯の真の目標も立たないと言ってよいでしょう。
その人が自分の師を発見しない間は、いろいろと彷徨して紆余曲折もありましょうが、一たび心の師が定まった以上は、迷いもおのずから少なくなり、また自分一人では決し得ないような大問題については、師の指図を仰いで身を処しますから、結局大したつまずきもなくなるわけです。
……
かくして今友人関係において、真に尊敬するに足りる友人とは、結局は道の上の友……師を共にする場合が多い……つまり同門の友というわけです。
「朋遠方より来るあり。亦楽しからずや」
幸か不幸か、今日は一杯足りないんだから、せめて今日だけは一椀だけでもこらえてみよう。そうして、腹一杯食べられない人たちの気持ちの一端なりとも察してみよう。よし!! もうこれきりで、誰にも言わずに晩まで頑張ろうーー
目上の人に対して卑屈な人間ほどかえって、目下の人に対して多くは傲慢になりやすいということです。……必要以上にヘコヘコするのは、真の謙遜ではなく卑屈でありますが、卑屈とは結局、自分が確立していないところから起こる現象でしょう。
……
真の謙遜とは、結局はその人が、常に道と取り組み、真理を相手に生きているところから、おのずと身につくものと思うのでありまして、その時たとえ目下の人に対すればとて、傲慢な態度などは、なろうはずはないのであります。
【感想】
森信三先生は、明治29年生まれ、京都大学哲学科を出られ、西田幾多郎の教えを受け、本書は、現・大阪教育大学での昭和12年〜14年までの二年間の講義をまとめたものです。
上海で知り合った方から初めてお聞きして読んでみました。
かたじけない……
真に尊敬するに足りる友人とは…同門の友
真の謙遜とは…常に道と取り組んでいる人
ーー至るところで身につまされる名言でした。
最も心に残る言葉はーー
「朋遠方より来るあり。亦楽しからずや」