助役大名は、それぞれの所領の石高に応じて普請場を割り当てられました。
各大名の分担場所(丁場割)は細分化され、堀の堀削、盛り土、石積みをお互いに競わせる仕組みとなっていました。
普請場でいさかいが起こると、双方が厳しく罰せられるので、各大名はこうしたトラブルを起こさないよう神経をすり減らしていました。それでも、現場は混乱を極めており、着工早々の3月には、黒田長政(助役大名)と平岩親吉(幕府側)の家来同士が言い争いを起こし、両成敗となっています。
丁場割に際し、加藤清正は自ら進んで天守台を受け持ちました。清正が築いた天守台は、20メートルもの高さに美しく積み上げた高石垣であり、その上面は天守閣1階平面と同じ形、大きさの長方形になっています。
これは、加藤清正の石積み技術が卓越していたことを示すもので、史上最大の天守閣の建築もこの技術があって初めて可能となったと言えます。