徳川家康は、豊臣がたとの緊張が高まる中、尾張国を東海道の一大防衛線として整備を進めました。
まず、慶長13年(1608年)に家康が伊那忠次に命じて木曽川東岸に約50キロメートルにわたり築いた堤防「御囲堤」は、尾張領内の治水だけでなく、大坂から攻め寄せる敵に備える防塁となるものでした。
次いで、尾張国の中心である清須城が問題となりました。清須城は大軍を収容できる規模がなく、五条川に臨む低地にあるため、しばしば水害にも見舞われていました。
このため、家康は清須城に代わる新城造営地を調査し、名古屋(那古野)、古渡、小牧の三候補地の中から名古屋を選びました。そして、慶長14年(1609年)11月16日に駿府において家康は名古屋新城の築城・名古屋遷府を正式に発令しました。これを受けて名古屋では早速、工事の位置決めである縄張りが始まりました。
名古屋城を築く場所は、名古屋台地の西北端で、台地の西面と北面は高さ10メートルの断崖になっていました。そして、断崖の下には泥沼が広がり、その向こうには庄内川、そして木曽三川が流れる天然の要害でした。
一方、南と東には大規模な城下町の建設が可能な広がりがあり、その先は東海道と熱田湊となっています。名古屋城築城は、軍事面だけでなく文化や交易の栄える新しい都市の誕生を予感させるものでした。
年が明けて、慶長15年(1610年)1月14日、将軍徳川秀忠が、西国の20大名に名古屋城普請(土木工事)の助役を命じました。
名古屋城築城普請助役
大名の居城と石高助役
大名居城石高
1.前田利光金沢120万石
2.金森可重高山3.9万石
3.浅野幸長和歌山38万石
4.池田輝政姫路52万石
5.生駒正俊高松17万石
6.蜂須賀至鎮徳島19万石
7.山内忠義高知20万石
8.加藤嘉明松山20万石
9.福島正則広島50万石
10.毛利秀就萩33万石
11.細川忠興小倉40万石
12.竹中重利高田2万石
13.木下延俊日出3万石
14.稲葉典通臼杵5万石
15.毛利高政佐伯1.8万石
16.黒田長政福岡52万石
17.寺澤廣高唐津12万石
18.鍋島勝茂佐賀36万石
19.田中忠政柳川33万石
20.加藤清正熊本52万石