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木津川口の戦い

2014年03月18日 (火) 22:00
木津川口の戦い

第一次木津川口の戦い(だいいちじきづがわぐちのたたかい)は、1576年(天正4年)に毛利氏と織田氏との間に起こった戦い。

織田信長軍の攻囲を受ける石山本願寺への兵糧搬入を目的とした毛利水軍・小早川水軍・村上水軍を中心とする瀬戸内の水軍戦力と、それを阻止せんとする織田方の水軍戦力が大阪湾木津川河口で激突した。 実際の戦闘では毛利方の水軍の使用する焙烙玉・雑賀衆の使用する焙烙火矢の前に織田方の水軍は壊滅的な打撃を受け、石山本願寺への兵糧搬入という当初の目的を毛利方が果たす結果となった。

第二次木津川口の戦い(だいにじきづがわぐちのたたかい)は、天正6年11月6日(1578年12月4日)に毛利氏と織田氏との間に起こった海戦である。

戦闘までの経緯

織田信長は、石山本願寺と勃発した戦闘(石山合戦)において本願寺を包囲し、兵糧攻めを行った。

しかし1576年の第一次木津川口の戦いで、本願寺付近の海上を封鎖していた織田水軍は、毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙火矢の前に大敗し、毛利軍の本願寺への補給を許してしまう。

織田信長は、九鬼嘉隆に命じて、大筒・大鉄砲を装備し、焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を伊勢国で建造させた。『多聞院日記』によるとその大きさは縦22メートル・横12メートルあったとされ、当時としては空前の巨大さと防御力を持っていた。

天正6年(1578年)6月26日、九鬼嘉隆は、完成した6隻の鉄甲船を率い、滝川一益の大船1隻とともに熊野浦を出発し、大坂湾へ向かった。途中、淡輪の海上で雑賀衆など多数の小船が攻撃をかけてきたが、九鬼は敵を引きつけて大砲で一斉射撃するという戦術を使い、これを難なく撃退。

7月17日には堺に到着。翌日に大坂湾に到着すると、要所に船を配備し、再び大阪湾を封鎖した。

なお、9月30日に信長は堺に行き、これらの船を見物している。この時に九鬼嘉隆と滝川一益、そして彼らの家臣に褒美が出された。

戦闘

11月6日、毛利水軍が木津川付近に姿を現した。九鬼らが迎え撃つと、毛利水軍は彼らを囲み、南下。

午前8時頃から戦闘が始まる。九鬼の6隻の鉄甲船は、敵を引きつけて、大将が乗っていると思われる船を大砲・大鉄砲で集中攻撃するという戦術をとった。これを恐れた毛利水軍・村上水軍はそれ以上近づくことはできず、数百隻の船が退却していった。戦闘が終了したのは正午頃であった。

結果

この戦いの結果、大坂湾の制海権が織田方のものとなった。これにより、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は無くなり、織田方は本願寺に対する勝利に大きく近づいた。約2年後、顕如は織田信長に降伏し、石山本願寺は織田信長に明け渡されることとなる。


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