〈30〉項羽と劉邦/司馬遼太郎 上巻
◎始皇帝の帰還
秦の始皇帝、名は政(せい)、かれを六国(りっこく)を征服して中国大陸をその絶対政権のもとに置いたのは、紀元前二二一年である。
─分裂している状態こそ常態
「──あんなやつが」
「王たちの時代はおわり、すべてが秦になった」
(つまりは、皇帝を倒せば、倒した者が皇帝になれるということではないか)
この皇帝制度の創始者は、ひどく土木工事を好んだ。…そういう土工のなかに陳勝(ちんしょう)という者もいた。
ただかれは組織でうずめようとせず、装飾でうずめようとした。
「朕(ちん)」
そのもっとも重要な事業の一つは、天下を巡幸して彼自身の顔を人民どもに見せてまわるということであった。
「彼取ッテ代ルベキナリ」
「よい薬をつくれ」
府中を主宰するのは丞相(じょうしょう)である。高名な李斯(りし)がその職にある。
「宦官は、人ではない」
皇帝は、毎夜、閨(ねや)に女を必要とした。
〈宦官の〉(趙高は影であって、人ではない)
(わしは、人間なのだ)
(わしほどえない者はこの世にいないのではないか)
(この男のいのちは、自分だけが握っている)
首都の咸陽(かんよう)は人夫で雑踏していた。
長男は、扶蘇(ふそ)という。
名将の蒙恬(もうてん)が、扶蘇を支持している。
末子の胡亥(こがい)が、二十歳になる。
ある朝、暗いうちに始皇帝が…息を引き取ってしまった。
「陛下は、亡くなられたのではない。…咸陽へ還幸されるまでは、生きておられるのだ」
(なんというばかばかしさだ)
秦帝国が事実上自壊するのは、咸陽の市場の乾いた土の上に李斯の首がころがったときであったといっていい。
◎江南の反乱
古代、稲を持ってはるかに東海に浮かび、倭(わ)の島々にきたのは、この南の呉越のひとだったろうと想像されたりしている。
有名な『魏志』倭人伝における倭人の風俗については、
「男子ハ大小トナク皆面ヲ黥(げい・いれずみ)シ、身ニ文(いれずみ)ス。……断髪、文身シ、以テ絞竜(こうりょう)ノ害ヲ避ク。今、倭ノ水人、好ク沈没シテ魚蛤(ぎょこう)ヲ捕フルニ文身スルハ、亦以テ大魚水禽(すいきん)ヲ厭(えん)スルナリ」とある。
右の倭の風俗と、揚子江以南の荊蛮(けいばん)のそれと瓜二つのように似ている。もし関係があるとすれば、この地の風俗は、はるかに海を越えて日本にきたといっていい。
北方の中原と揚子江以南とは、主食を異にしている。北方の黄河流域は稲の適地ではなく、従って米食をしない。江南──は気候が温暖多雨
「中国」がはじめて大きな領域を占めるにいたるのは、いわゆる春秋戦国時代(紀元前七七〇〜同ニニ一)からである。
三戸といえども、秦を滅ぼすものは必ず楚ならん。
項羽は、その楚の人である。
楚の山河には秦へのうらみがわきあがっている。
秦に対する最初の反乱にたちあがった陳勝・呉広という農民もまた楚の遺民であった。
「こんなものが覚えられるか」
と、項羽はそのつど駄々をこねた。
この時代、楚人にとって漢字はおぼえにくいものであった。
「このにぎやかな町で、すこし根を張ってみよう」
と、項粱(こうりょう・項羽の叔父)は項羽に言い、言動に注意させた。人心を攬(と)ろうとする者はひとに嫌われることがあってはならないのである。
項粱「その行方を知っている者はわが“おい”の項羽めのほかありませぬ。ただいまその項羽めをここに連れて参りますので、ただいまの御命令、おん直々に項羽にお下しくださいますように」
「甥の項羽でござる」
…殷通(いんとう)の頭を激しく撃った。
「先ンズレバ即チ人ヲ制シ、後ルレバ則チ人ニ制セラル。公、コレヲ我ニ教フ」
「この項粱が、今日から会稽(かいけい)郡の郡主である」
(なんとたやすいことよ、秦の制度は弱かった)